本多勝一の著作にもあるように、差別する人は「自分が人を差別している。」という感覚がないのだろう。「茶色の猫」のはなしを理解できない方もいるし。しかし、差別される側や差別されたことがある方は、今目の前で行われている差別行為の対象が自分でなくても、その差別行為に敏感である。かつて恣意的に差別とされる行為を行った者が、その行為について謝罪も反省もせず、どうやら今も「私はそんな行為をする権利がある。」とでも思っているようだ。
差別は量とか回数とかその行為の内容によって、
「ここまでは差別にならない。ここからは差別になる。」
というものではない。
「まさか差別と捉えられるとは!」
と差別した側が差別とは思っていなかった行為も差別であることがある。何気ないからかいや冷やかし。行事としての飲み会の恣意的な人選、などなど。
「この程度で差別?」
と思うようなレベルの行為を放っておくとそのうち身動きできなくなる。歴史から学ぼう。
自衛の為、といって他国へ先制攻撃をするような行為とか、核兵器を保有する行為が正当化されるべきではない。